2012年2月19日日曜日

明日から,4年目。

母が亡くなるもっと前,雑誌をパラパラとめくっていて,
「ソーシャルワーカー」という職業があることを知った。

わたしの中学生活が忙しくなってきたある時期から,どんなに掃除をしても,
家の中の「景色」が汚れている,というイヤな気持ちが払拭できない感じを覚えるようになった。
今思うとそれは,母が帰らぬ人となる前触れだった。

仕事以外は寝ていることが多くなった母が,ある日、耐えきれずに苫小牧の病院に行った。
緊急の検査入院の必要を告げられた。
やがて札幌の北大病院で放射線治療をすることになった。
空き部屋がなかったので,とりあえず近くの光星産婦人科に入院し,北大に通った。

ある日,産婦人科にお見舞いに行った。
病室には母はいなくて,ふとテーブルの上にあったメモを見た。
母が震える字で書いたメモだった。
放射線治療って辛いんだ,と思った。
産婦人科なのにとても寒く,寂しい気持ちになった。
母がかわいそうだと思った。

その日母はわたしに,こう言った。
「ごめんね,弟たちの面倒を頼むね」
治療が辛いとは言わなかった。

同じ頃,ニュースキャスターの逸見政孝さんがガンに倒れた。

人気者だったので,よく逸見さんの容態をテレビが特集した。
観れば観るほど、母の病状にそっくりだったので,母に似ているな?
・・・いや,「前ガン症状」だよ,でも,もしかしたらもう戻ってこないのかな?
という気持ちの中で揺れていた。
この頃,無我夢中で家にあった家庭医学大辞典を読んだり,
本屋さんに行って胃の病気やガンのことを調べた。

決して,母の不在を悲しまないようにしていた。 

でも,母は胃と子宮の末期ガンに侵されていた。
若かったので進行も早かった。別れは突然訪れた。

ある日,病室に行くと話ができなくなくなっていた。

次に行ったときには髪が抜け,口から臭いにおいをさせてしまっていた。

次に行ったときには,ガンは母から,自力でまばたきをする力さえ奪おうとしていた。

付き添いの人が,「誰が話しかけても、もうほとんど反応しないの」と言った。
「でも和香ちゃんが話しかけたら反応があるかもよ?」 と言うので、
「お母さん,お母さん」と声をかけたら,
もう意識が戻ら無いと思われていた母が,眼球を動かして応えてくれた。

忘れっぽいわたしでも,母が亡くなったときのことはよく覚えている。静かであっけなかった。
いつ終わるとも知れないし最期までどうなるとも考えたくなかったが,
不安の影は日に日に濃くなっていった。胸が苦しかった。
家にいると早く母のそばに行きたくてしかたがないと思うのだが,
病院に寝泊りをすれば身体中が痒くなり,熟睡できないので疲れた。
家族ひとりひとりが,それぞれ辛い思いをしながら母を想った長い長い日々。

3月28日の朝,病室に看護婦さんがカートを引いてきた。続いて医師もきた。
わたしと父は病室の外に出された。

母は息を引き取った。

病室に呼ばれると,春の日差しが病室内を明るく照らしていた。
「9時6分、ご臨終です」と医師はわたしたちに言った。
隣で立ち尽くしていた父が声を上げて泣き始めた。
彼が声を上げて泣いているのを初めて見た。
わたしは泣かなかった。

父が親戚の家に連絡をしに行った。
みんなが居なくなって,ようやく母と2人きりになり,
わたしは自分の1番したかったことをした。
すっかり痩せて骨と皮だけみたいになった母の胸に,顔をうずめた。
もう母を頼ったり,甘えたって帰ってこないのに,ずっとそうしていたかった。
「ありがとう,お疲れさまでした」というようなことを,伝えた。

病室を出て,階段の踊り場で暇つぶしをしている,
無邪気な双子の弟たちに告げなければならなかった。

「お母さん,死んだよ」

弟の先に生まれた方が言った。
「嘘つけ」

わたしが1番悲しかったときはこのときだ。
そんな嘘,つけるはずないじゃない・・・悲しすぎた。

遺体を霊柩車に搬送するときも,雪が降っていたが,外は明るかった。

あのときから未だに,わたしは弟たちの涙を見たことがない。
シャイな彼らが心の底から笑っているのを見たことがない。
誰かに心を開いているのを見たことがない。
もしかしたら彼らは,母が死んだあのときからずっと,
現実逃避し続けているのかも知れない。
「嘘つけ。自分の本当の人生は,こんな悲しい現実なんかじゃない」

そう,「自分の思う現実」を大切にして欲しい。

悲しいときに悲しいと言えないまま大人になったあなたたちの,
本当の心の声をいつか聞かせて欲しい。

なにかのときには,力になれるよう頑張るから・・・ちゃんと見守っているから。

その後わたしは時折り,母の仏壇の前で悶絶しつつも高校を卒業した。

高校卒業の頃,やっと普通の学生らしい夢を抱けるようになり,札幌に出た。
やがて函館に移り住み,地道に働き,気づいたら,
母が生きていた頃に初めて知った「ソーシャルワーカー」が気になりだしていた。
社会福祉国家試験受験資格を得るため,
働きながら4年間通信教育で勉強することを決意した。

さっそく願書を取り寄せ,会社の仲間や社長に決意のほどを伝えた。
合格するまで受験しようと思っていた。
合格したら,貪欲に学ぼうと思っていた。

働いて貯めたお金はほとんど教材に変わった。お金だけじゃない,
忙しさに身を置くことで,失うものがあるかも知れないのは分かっていたが,
やっぱりわたしはもっと頑張って頑張って生きたいと思った。

そして4年後には国家試験が控えていて,自分の価値(Mind)が,
より更に広い世界で問われるのは国家試験に合格してからだから,
毎日の積み重ねを大切にしようと思った。

同時に,さまざまなボランティア・社会活動・アルバイトをし,
未熟だった社会生活スキルを積んできた。
福祉の経験がしたくて,夕張で福祉相談員の業を勉強させて頂いた。
自分自身,厳しい現実に直面したし,さまざまな厳しい現実を目の当たりにした。

仕事をしながら科目試験を受け,スクーリングに通い,引越しや新しい仕事を経験し,
ピック病と診断された身内の心配をしたり,さまざまな人に別れを告げ,
さまざまな人と出会い,生まれて初めての豪雪も経験した。

本当に大変だったけれど,もちろん頑張りに頑張ってきた。

明日から,4年目。


むきーーーーーっヾ(*`Д´*)ノ"彡☆