2012年7月18日水曜日

主体・客対論その1


ヘラクライトスは、「運命は性格にあり」と言った、そう言ったのは小池晶子さんだ。
本当にそうなのか?何もしなければ、どんな答えも分かるべくもない。
でもどうやって?小池さんの引用をもうしばらく続ける。
「これと同じことを小林秀雄が言っていました。「彼は科学者にもなれただろう、軍人にもなれただろう、しかし、彼は彼にしかなることはできなかった。これは驚くべきことではないか」。そういうふうに、彼は魂としての存在の謎を述べたのです。
何にでもなれるけれども、その人はその人以外になることだけは決してできない。
これは本当に驚くべきことです。何をやってもその人のするようにしかできないんですね。まったく当たり前ですけれども、事実はそうですね。」(小池晶子『人生のほんとう』)
運命は性格にあるのか,いやそもそも,「わたし以外にはなりえないわたし」とは,どういうことなのか。



西田幾多郎(1870~1945)の次の言葉がある。
「人間は人間自身によって生きるのではない、またそれが人間の本質でもない。人間は何処までも客観的なものに依存せなければならない。自己自身を越えたものにおいて自己の生命を有つ所に、人間というものがあるのである。」
人間の単位で見るとその運命は生きて,死ぬことである。
万物はそうして常に形をかえてゆくが,「わたし以外にはなりえないわたし」は確実に存在する。


「君を知る」わたしの現実の中のわたしは,君がこの世からいなくなっても,
「君を知っていた」わたしの現実を,引き受けて生きてゆく。

君の身体には限りがあるが,わたしが消えるまで,君はわたしの中に生きている。


わたしの中の君は,わたし以外に持つことができない。
よってわたしの方法でしか,君をだきしめる事はできまい。

ものごとをどのような方法でどのくらい類別化し,相対化し,絶対化してゆくか。
なにを追求しなにに溺れるか---
わたしの意識が働くまで,事象はわたしの現実には存在しないし,
どのような性格を獲得するにせよ,
「わたし」という絶対の存在がそれをいかようにもしているようにも思う。

その,いかようにもしている「わたし」とはいったいなんなのか。


福祉の分野に,「エンパワメント」と「ノーマライゼーション」という言葉ある。
この2つに共通した問題意識とは,「自らの生活の質の向上を図るパワーを不当に奪われ,
結果として一人の人間としての価値が引き下げられた状態」
つまり「自己価値の剥奪された状態」からの復権を目指した概念である。


差別的、抑圧的な社会システムによってもたらされた社会的、経済的、政治的な無力化状態から
の復権である。

わたしはここで「自己による直接的・間接的な抑圧からくる無力感」についても同様の考察を試みる。








自己認識がわたしを担保しているかどうかについて,もう少し考えたい。


「支配」を辞書ではこう説明している。
1 ある地域や組織に勢力・権力を及ぼして、自分の意のままに動かせる状態に置くこと。
2 ある要因が人や物事に影響を及ぼして、その考えや行動を束縛すること。
3 仕事を配分したり監督・指揮したりして、部下に仕事をさせること。
これらの「状況」はフロイトやユングの定義にみられる「自我」の働きと似ている。


支配はなにも「同化政策」のようにあからさまな力となって表れている訳ではない。
物体は引力に支配されている。形あるものは時間とともに劣化する。
人間は過去の成功パターンに固執する。これらを支配と言うことができるし,
そもそも人間は,自分でもコントロールできない精神も持っており,
それらは外界と交流し,フィードバックを受けてまた自我と交流しているのだ。
あるときはその犠牲となり,あるいは支配されているという意識の無しに,
自ら支配されている状況を選択していることも,あるのではないだろうか。


心理学者のべムは,自己の心理状態を知るという「自己知覚」は,他者の感情を推測
する「他者知覚」の過程と,非常に似ていると言った。
どういうことかと言うと,内観的に自分の内面を感じ取るという「内的手がかり」
よりも,自分の行動や周囲の状況,他者の反応といった,「外的手がかり」から推測して
自分の心理状態を,観察を通して知覚することが多いのだという。
この,「自己知覚理論」から分かることがいくつかある。
Ⅰ 行為をすることで自分を知り保っていると考えているのが人間である
Ⅱ 常に何らかのフィードバック(認識)をしないと自己を保てない
Ⅲ 内的手がかりを得る方法(内観)は難しいということ


つまり,「支配する」という状況に身を置かない限り,自我は存在しない。